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カンボジア語翻訳ご依頼方法
ステップ1
お見積り依頼フォームよりカンボジア語翻訳データを送信してください。ご依頼後1営業日以内に見積をさせて頂きます。 (翻訳原本がまだご用意できていない場合は文字数や翻訳内容等をお知らせ下さい。)
ステップ2
カンボジア語翻訳見積もり金額とカンボジア語翻訳納期をEメール、または電話にてお知らせ致します。 (状況に応じて詳細に関して質問をさせて頂きます)
ステップ3
Eメール、又はお電話にて正式なご発注をいただきます。
ステップ4
カンボジア語翻訳作業を開始します。
ステップ5
日本語とカンボジア語のバイリンガルスタッフによるチェックをします。
ステップ6
カンボジア語翻訳チェックの結果を、カンボジア語翻訳者にフィードバックし、必要に応じてカンボジア語翻訳を修正します。
ステップ7
完成したカンボジア語翻訳原稿を納品します。
ステップ8
カンボジア語翻訳に関して、お客様からのフィードバックを受け、今後のカンボジア語翻訳に役立てます。
フエの歴史
フエは、秦の滅亡後に垓下の戦いで項羽に勝利した劉邦が建国した事で知られる前漢の第7代皇帝武帝によって紀元前111年に、南越を滅ぼし南海9郡が置かれ、日南郡の首府の近郊に存在していたとされ、938年の白藤江の戦いで呉朝が、南漢軍に勝利するまで1000年にも及ぶ中国の支配を断続的に受けて来た都市です。 前漢の支配下では、地方の貉将や貉侯が有していた税の徴収権が前漢に移管されていた為に、後漢時代には交趾郡太守の蘇定の悪政もあり、紀元前40年3月に南越内の65の県の貉将や貉侯が徴側を徴王とする徴姉妹の反乱や137年に中部の日南象林で区憐が後漢に対して反乱を引き起こしますが、後漢王朝初代皇帝光武帝や後漢王朝第8代皇帝順帝により鎮圧されています。 144年には、後漢と和睦し後にチャンパ国となるラムアップ(林邑)国を樹立し、林邑の時代のフエは東南アジア内陸部の貿易品を中国に出荷する積出港として栄えていたと考えられています。
602年には隋が李仏子を殺害し、605年には隋がチャンパを攻撃し、フエは再び中国王朝の支配を受ける事になります。
679年には唐が交州を安南都護府とし、768年には日本人の阿倍仲麻呂が安南都護府に任命されています。
胡朝は、1401年より紅河デルタ地帯の住民をフエに移住させ、陳朝はフエを拠点として、1413年まで明に抵抗を続けています。
フエは、16世紀南北抗争時代まで北政権とチャンパ王国の国境に位置する一都市に過ぎなかったが、1636年に富春都城が完成し広南阮氏の本拠地となり、南シナ海貿易の中心地として繁栄しています。
その後、1774年には鄭氏、1786年には西山阮氏の阮文恵、1801年に嘉隆帝等により制圧され、フエにはヴォーバン様式の星型の城郭を持つ王城やサイゴンの太和殿建設の建設や移設が行われています。
フエは、1883年フランスに占領され、1945年8月の八月革命によりに13代続いた中国的な阮朝が滅亡しています。 1963年には、ゴ・ディン・ジエム政権のカトリック教会に対する賦役労働や税金免除などの優遇措置や独裁政治に対する抗議活動を契機に、カンボジア共和国の軍事クーデターが起こっています。
フエはカンボジア戦争の激戦地であり、1968年のテト包囲戦では約2,800人が南カンボジア解放民族戦線の兵士によって虐殺された歴史があり、現在ではカンボジア戦争の負の遺産とグエン朝期の遺産の両側面を併せ持つ事からフエの建造物群として世界遺産に登録されています。
フエで話されているカンボジア語は、中部地方の方言です。